欅坂9thシングル表題曲差し替え説が誤りであると考えられる理由

欅坂9thシングル表題曲差し替え説が誤りであると考えられる理由は以下の通り。

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1.問題とその整理

まず、表題曲差し替え説側の主張を整理しておくと

 

[表題曲差し替え説側が提示している主な論拠]

1)例の流出映像(とされる映像)に映っているのが表題曲のメンバーである点

2)10プの撮影は10月末であるが例の流出映像の撮影は10月頭である点

3)例の流出映像の内容が過激である点

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しかしより重要なのは

 

4)ラストシングルとベストアルバムで新たに発表された6曲にはこの流出映像のイメージに合致するようなものが一つも存在しない(つまりこの映像はどの曲のMVでもない)ように思われる点

 

ではこれらの論拠にもかかわらず表題曲差し替え説が誤りであると考えられるのはなぜか。

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ここで一旦4つの論拠を整理しておく。まず第一に論拠4だけでは、未発表曲がある(そしてそのMVがある)ということまでは言えてもその楽曲が元々表題曲であったということまでは言えない。そのためここで論拠2と論拠1が必要となる。まず論拠2よりその未発表曲が9th収録曲であることが推測される。

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なぜなら論拠2よりこの未発表曲の撮影は10プのMVの撮影と近い時期行われており、そのような時期に9thシングルとはまったく関係のない曲の撮影が行われるとは考えられないからである。さらに論拠1より、この未発曲の歌唱メンバーは表題曲の選抜メンバー(を含むメンバー)であることが分かる。

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以上より、表題曲の選抜メンバー(もしくはそれを含むメンバー)が歌唱メンバーであるような未発表が9thシングルには存在する、ということが言える。しかしこの段階に至っても、この未発表曲が表題曲であるという論拠にはなり得ない。元々カップリングだった可能性もあるからである。

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そのためここから二つの論理の飛躍が行われることになる。一つは「表題曲の撮影は他のどの楽曲よりも先に行われる」という前提と論拠2を用いて「10プよりも先に撮影が行われているのだからこの未発表曲は表題曲だ」という結論を導くという飛躍である(しかしこの前提は自明ではない)。

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もう一つの論理の飛躍は論拠3を用いて行われる。論拠3は「この未発表曲の撮影が過激であり平手さんはこの撮影によってこの楽曲を表現することができなくなってしまったため表題曲を差し替えざるを得なくなった」を含意している。以上の3つの論拠と2つの飛躍が表題曲差し替え説をサポートしている。

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しかしこの論証には一つの致命的な欠陥が存在する。それは一つ目の飛躍が適用されるならば一度目の10プのMV撮影(7月)前にこの未発表曲の撮影が行われていなければならず10プとは異なり台風で延期されることはなかったのだから10月頭にこの未発表曲の撮影を行う必要がない、という欠陥である。

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よって表題曲差し替え説側は一つ目の飛躍を放棄しなければならず、そうなると次の二つの結論だけが残ることになる。

 

1)表題曲の選抜メンバー(もしくはそれを含むメンバー)が歌唱メンバーであるような未発表曲が9thシングルには存在する

2)そのMV撮影は過激だったためその後の表現に支障をきたした

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しかし繰り返すがこれだけではこの未発表曲が表題曲だったと言うことはできない。カップリングだった可能性も十分に考えられるからである。

 

とはいえ私の結論は「この未発表曲はカップリングだった」というものではない。私の結論は「未発表曲ですらない。カップリングではあるが」である。

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なお以下のツイートでは例の流出映像が実際の流出映像であるという前提で話を進めていく。それは私が例の流出映像を実際の流出映像だと考えているからではなく、もし例の流出映像を実際の流出映像だと仮定した上でも反証できれば表題曲差し替え説を維持することがいっそう困難になるからである。

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ではここで表題曲差し替え説側が採り得る4つの仮説について確認しよう。以下の4つの仮説は、例えば1であれば元々未発表曲が表題曲だったがそれが10プに差し替えられたことを意味する。

 

1)未発表曲→10プ

2)10プ→未発表曲

3)未発表曲→10プ→未発表曲

4)10プ→未発表曲→10プ

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このうち1と3の仮説は明らかに仮説としての欠陥を抱えている。なぜなら9thシングルの制作がはじまった時点(7月)では間違いなく「10月のプールに飛び込んだ」が9thシングルの表題曲としてすえられていたからだ。その根拠を以下示していく。そのためにまずは諸時系列を確認しておこう。

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2.「未発表曲→10プ」を否定する

[公式]

1)〈2019.09.08〉「9thシングルの発売が今冬に決定致しました」

2)〈2019.12.08〉「この冬年内のリリースを予定しておりましたが、制作を進める上でより良い作品を追求して行きたいという考えに至り、発売日を見直す事になりました」

3)〈2019.12.11〉当初の発売日(セブンネット情報)

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[補足:ガセリーク]

1)〈2019.11.01〉9thシングル「君とフジチャク」が12月11日に発売されるというガセリークが投稿される(ガセであるのは収録曲から明らか)

2)〈2019.12.11〉セブンネットのミスで12月11日が当初の発売日だったと判明(この発売日の一致は偶然)

 

欅坂46 9thシングル、本日12/11発売予定だった模様。セブンネットショッピングが円盤に続いて2日連続お漏らし - 櫻坂46まとめきんぐだむ http://toriizaka46.jp/keyakizaka46/245023/

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[タイアップ]

1)〈2019.07.09〉砂塵/タフマンリフレッシュの新テレビCMが12日から放送されることが発表

2)〈2019.07.30〉10プ/ローソンのテレビCMが放送

3)〈2019.08.24〉10プ/イオンカードの新CMが公開(ここで曲名が判明)

4)〈2019.10.25〉10プ/メチャカリの新CMが公開

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[10プの撮影]

1)〈7月某日(けやかけ情報)〉選抜発表

2)〈2019.07.25〉10プMV撮影前日リハーサル

3)〈2019.07.26〉台風接近のため撮影中止

4)〈2019.10.23〉2度目の10プMV撮影1日目

5)〈2019.10.24〉2度目の10プMV撮影2日目

 

注:平手さんは2には参加、4、5には不参加

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では9thシングルの制作がはじまった時点(7月)では間違いなく10プが9thの表題曲としてすえられていたと考えられるのはなぜか。その根拠としては次の三つ(監督の紹介文、「〔10プが〕代表の曲になる」という会話、「10月のプールの制作に入ったとき」という発言)を挙げることができる。

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[根拠1]

新宮さんに関するこの字幕(「3rdシングル『二人セゾン』から連続して、表題曲のMVディレクターを務める」)は、映画の10プ撮影シーンで表示される。これは普通に考えれば「9thの表題曲の監督」という意味だろう(が、うがって見れば「今作は違うが」と解釈できないこともない)。

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[根拠2]

この会話は〈07.25〉MV撮影リハーサルの際に為されたものでありそれはドキュメンタリー映画で確認することができる。なおこれが10プのMVであると言えるのは

 

1)10プの仮歌が流れている場面がある

2)TAKAHIROさんが10プを歌いながらカウントを取っている場面がある

 

からである。

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このとき、佐藤さんの「何か久しぶりに陽に照らされて〔いる場所でMV撮影を行い〕ますね」という言葉の後に、インタビュアー(であるこの映画の監督)は次のような発言をしている。

 

「この曲がほら、次、代表の曲になるわけじゃん? しばらく。だから雰囲気もきっとガラッと変わっちゃうよね」

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この発言に対して佐藤さんも「そうですね。えー、どうなるんですかね、欅坂」と返答していることからインタビュアーの発言の内容が突飛なものでなかったことがわかる(つまりこのインタビュアーの発言の内容がインタビュアーの勘違いや妄想ではないことが分かる)。ではこの発言の何が根拠となるのか。

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まず、「しばらく」という部分から少なくとも9thシングルのプロモーション期間はこの曲の披露が見込まれていたことが分かる。また、「次、代表の曲になる」という部分だが、もし10プが単なるカップリング曲であった場合「代表の曲になる」という表現はふさわしくないように思われる。

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以上より10プは表題曲であったことが分かる。また、だからこそ「雰囲気もきっとガラッと変わっちゃう」という表現が用いられているのだと考えられる。もし表題曲差し替え説側が主張するように表題曲が過激なものであったのなら、それを押さえてc/wが欅坂の雰囲気を変えることなどあり得るだろうか。

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[根拠3]

この発言は運営側が発売の延期をメンバーに報告している際に為されたものである。なおその時期だが菅井さんがブログで「年内に9枚目シングルのリリースが決まっています。〔…〕あと少し、待っていてくださいね」と発言した〈11.04〉と、公式の延期発表の〈12.08〉の間であると推測される。

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また映画ではテロップが表示されるタイミングの関係でやや分かりづらくなっているが、メンバーの服装や位置を見る限り、メンバーに対するこの延期の報告と以下の発言は同じタイミングで為されたのだと考えられる。運営側(今野さん)の発言は以下の通り。

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「全部正直に話をすると、えーっと、その前の段階で、10月のプールの制作に入っていたときに、本人がどうしても、その、歌詞であったり色んな世界観が自分的に表現ができないみたいな話になってしまい、えーっと、それで、えーっと、で、あの、MVの日も結局来なかったっていうのがあったと思います」

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冒頭の「その前の段階で」というのは「そもそも当日や前日といったレベルの話ではなく、その前の、9thシングルの制作がはじまった7~9月の段階で」という意味だと思われる。「えーっと、それで、えーっと、で、あの」と言葉を詰まらせたのは、そこから急に10月に話を戻す必要があったからだろう。

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しかしここで問題となるのは平手さんからいつ相談があったかということではなく「10月のプールの制作に入っていたときに」という言葉使いの方である。つまり「~の制作に入っていたときに」という言葉使いは曲名に対してではなくシングル(7曲)名に対して用いられるのではないかということである。

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例えば下の記事名にあるような「制作」の使われ方がそうである。そのように考えたとき「10月のプール」は曲名ではなくシングル名を指すことになり、そこから10プが表題曲であることが導かれる。

 

【櫻坂46】3rdシングル、まもなく制作期間突入か - 櫻坂46まとめもり~ http://keyakizaka46matomemory.net/archives/43829283.html

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以上の[根拠1]~[根拠3]より、少なくとも7月時点では10プは表題曲であったのではないかと考えられる。ただし「制作」を単に曲名に対して用いることももちろん可能ではあるため、その場合は[根拠2]のみが「少なくとも7月時点では10プは表題曲であった」ことの根拠となる。

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よって表題曲差し替え説側が採り得る4つの仮説のうち

 

1)未発表曲→10プ

3)未発表曲→10プ→未発表曲

 

の二つはこの時点で維持することが困難となる。つまり、「元々カップリングだった10プが~」というタイプの表題曲差し替え説は、その時点で誤りであるということになる。

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しかし私たちはどこまでを表題曲差し替え説だと考えればよいのだろうか。というのも“次の”シングルが当初の10プではなく誰鐘であった時点で、表題曲は差し替わっているとも言えるからだ。その意味で表題曲差し替え説は正しい。しかしここで問題になっているのはそのような差し替えではないはずだ。

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ここでいったん表題曲差し替え説側がなぜこの説を提唱したがっていたのかについて思い出そう。表題曲差し替え説側の動機は煎じ詰めると以下の疑問を解決することにある。

 

1)例の流出映像は何か

2)なぜ選抜メンバーが未発表曲を歌っているのか

3)映像の過激さは9th発売延期の原因なのではないか

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これらの疑問を解決するために持ち出されたのが表題曲差し替え説であった。ということはこれらの疑問を解決さえできれば、わざわざ表題曲差し替え説を持ち出してくる必要もないということになる。そのため以下この3つの疑問の解消を目指していくことになるのだが、とはいえここで一つの問いが生じる。

 

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3.「10プ→未発表曲」説をとるタイプの表題曲差し替え説

それは、表題曲差し替え説はどのように「10プ→未発表曲」を説明するのかという問いである。ここで表題曲差し替え説側が採り得る残る二つの仮説を再度確認しよう。

 

2)10プ→未発表曲

4)10プ→未発表曲→10プ

 

映像の過激さでは「未発表曲→10プ」の説明はできてもその逆はできない。

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そのため次のような仮説が必要となる。それは「7月の前日リハーサルを経た結果、平手さんは10プの歌詞や世界観を表現することができないことが明らかになったため(そしてその旨を運営は平手さんから伝えられたため)平手さんが表現できる別の表題曲に差し替えることになった」という仮説である。

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しかしこの新たな仮説を認めた場合次のような問題が生じる。一つは[根拠3]で引用した運営側の発言に「全部正直に話をすると」という文言が含まれているという問題である。もし表題曲を差し替えることになったのであれば、差し替えた理由をその新たな表題曲を撮影する際に既に説明しているはずだ。

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そして表題曲差し替え説側によれば未発表曲の撮影は10月の頭に行われたのだから(cf.下の記事内にある目撃情報ツイート)、10月末の10プの撮影以降に行われたミーティングで「全部正直に話をすると」と運営側が打ち明けるのは理に適っていないということになる。

 

欅坂46】9thシングルMV撮影、目撃情報がこちら! - 櫻坂46まとめもり~ http://keyakizaka46matomemory.net/archives/39017755.html

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3-1 「未発表曲の撮影⇒2回目の10プの撮影⇒表題曲の差し替え」

この問題の解決方法は大きく分けて二つある。一つは「差し替える理由はメンバーには伏せたまま10月頭の撮影が行われた」という新たな仮説を付け加える方法、もう一つは表題曲の差し替えが行われたのは10プの二回目の撮影後だとする方法である。しかしこれは「10プ→誰鐘」と何が違うのか。

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もちろん2回目の10プの撮影を終えたあとに、その未発表曲を表題曲に差し替えるという案が出た可能性は否定できない。しかし案が出ることと表題曲が正式に差し変わることは大きく異なる。表題曲が正式に差し変わったと言うためには新たな表題曲で発売する予定が実際に存在していなければならない。

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しかし当初の発売日が〈12.11〉だったとして10プの2回目の撮影後に本当に表題曲の差し替えが間に合うのかは疑問である。また仮に間に合うとしても、ではなぜそれを発売しなかったのかという疑問が残る。差し替えても発売できない事情があるならばそもそも新たな表題曲での発売を予定するだろうか。

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もし平手さんが撮影に参加していないことが延期の理由であるならばそもそも表題曲を差し替えようが差し替えまいがその事実は変わらないのだから、表題曲を差し替える必要はない。またそれ以外に事情(脱退の決定やMVの完成度)があるのであればその問題は表題曲差し替えの前に表面化するのではないか。

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なぜなら例えば平手さんが表現できるかどうかが「10プ→未発表曲」の理由であるならば、平手さんに何の断りもなく新表題曲を決定するとは思えないからだ。また「何の断りもなく」という意味では、この場合、表題曲の差し替えが行われた理由をメンバーにすら報告していなかったことになってしまう。

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なぜなら運営側がメンバーに「全部正直に話をすると」と経緯を説明したのと発売の延期をメンバーに報告したのは同時なのだから「未発表曲の撮影⇒10プの撮影⇒メンバーに経緯を説明せずに差し替え⇒発売が延期になり経緯をメンバーに報告」とならなければならないからだ。しかしこれは不自然だろう。

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3-2 「1回目の10プの撮影⇒表題曲の差し替え⇒未発表曲の撮影」

そのため差し替えが有り得るとしても2回目の10プの撮影後という仮説ではなく、当初の「差し替える理由はメンバーには伏せたまま10月頭の撮影が行われた」という仮説の方を採用しなければならなくなる。しかしこの説にも問題があり一つは10プ撮影後説と同じように不自然であるというものである。

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またもう一つの問題は、10プを表現できないという理由で10月頭以前に表題曲を差し替えたのであれば、10プは平手さん抜きの楽曲として作り直すだろうし、仮に作り直さなかったとしても平手さんが10プの撮影に参加せずとも成立するような準備を事前にするのではないかという問題である。

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しかしドキュメンタリー映画を見る限り平手さんは撮影に参加することになっていた。とはいえ、「平手さんが10プの撮影に参加せずとも成立するような準備を事前にするのではないか」という可能性、つまり基本は平手さんは参加しないが参加することもできたというような体制になっていた可能性は残る。

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なぜなら(仮に振り入れ自体は当日だったとしても)当日の思いつきで2期生をセンターの代役として立てたとは思えないからである。表題曲差し替え説に立てばこの時点の10プはカップリングであるが、いくらカップリングのMVのセンターであってもそれを当日の思い付きで決定することなどあり得るのか。

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またこのタイプの表題曲差し替え説に仮に立たなかったとしても、平手さんが参加せずとも成立するような準備を事前にしていた可能性はある。なぜなら平手さんからの相談を「その前の段階」から受けていたのだから、平手さんが参加しない可能性を一切想定していなかったなどあまり考えられないからだ。

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ではこの仮説通り「7月時点では10プが表題⇒10プは表現できないため表題曲を差し替え⇒メンバーに差し替えなった理由は伝えずに10月頭の表題曲の撮影を決行⇒平手さんが参加してもしなくてもどちらにも対応できるような状態で10プの撮影を決行」なのか。しかしこの仮説にも問題はある。

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それは発売を延期する理由が見当たらない、というものである。「参加してもしなくてもどちらにも対応できるような状態」だったのなら、仮に不参加だったとしてもそれが発売延期の理由となることはないはずだ。また不参加ではなく脱退の決定が延期の理由ならば今度は脱退の決定の理由が必要となる。

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そこで表題曲差し替え説側は新たに表題曲となった例の未発表曲の「過激さ」に訴えなければならないことになるのだが、これに関しても本当に「過激」だったのか判断できない上に、冒頭で示した「これ平手病むどころじゃないだろ」等のコメントを平手さん以外の人間が軽率に述べるべきだとも思わない。

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またその撮影が平手さんのその後の表現にどの程度影響を与えたのかを部外者である私が判定すべきではないし、そうするつもりもない。そのため私はこのタイプの差し替え説の問題点を挙げることはできない。差し替えの理由をメンバーに伏せたまま撮影が行われたというのは不自然だ、というもの以外は。

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なお

 

4)10プ→未発表曲→10プ

 

というタイプの差し替え説の場合10月頭の撮影と10プの撮影の間に「未発表曲→10プ」の差し替えが行われたことになる。なぜなら10プの撮影後では先述の問題が再燃するからである。またこの説も「未発表曲→10プ」は例の「過激さ」に拠ることになる。

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4.例の流出映像が未発表曲のMVではないことを示す

では差し替え説が誤りである理由を示すことはできないのだろうか。ここで取るべき方策を戻す必要がある。どういうことか。まず一般論としてある疑問を解消する際そこで用いられる補助的な仮説は少なければ少ないほど良い。補助的な仮説を無尽蔵に増やして説得力を高めようとするのは得策とは言えない。

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一方で表題曲差し変え説を採った場合そこで必要とされる補助的な仮説(例:「平手さんが10プを表現できないため表題曲が差し替えられた」や「差し替えの理由はメンバーに伏せたまま撮影が行われた」等)の量は多くなってしまう。そもそも大前提として表題曲はそうやすやすとは変更されない。

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そして表題曲差し替え説は例の流出映像を説明するために持ち出されたものであるため、より少ない補助的な仮説で例の映像を説明することができるのであれば、わざわざ遠回りして表題曲差し替え説を支持する合理的な理由はない(そちらの仮説の方がおもしろそうだという下衆な欲望の存在を除けば)。

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しかし「そちらの仮説の方がおもしろそうだからそちらを採用したい」というファンの下衆な欲望のせいでこれまでメンバーの心身に一体何が起こり得たのかは良心のある人間ならば容易に想像できるだろう。実際にメンバーの心身に何が起こったのかとは関係なく。そのためそのような欲望は厳に慎むべきだ。

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ではどのようにすれば表題曲差し替え説を持ち出さずに例の流出映像を説明することができるだろうか。ここでいったんスレッド冒頭の[論拠4]を思い出そう。

 

4)既存の7曲にはこの流出映像のイメージに合致するようなものが一つも存在しない(つまりこの映像はどの曲のMVでもない)ように思われる点

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しかしこれは本当だろうか。まず確認すると、ここでいう「既存の7曲」とは「10月のプールに飛び込んだ」「コンセントレーション」「誰がその鐘を鳴らすのか?」「砂塵」「カレイドスコープ」「Deadline」「角を曲がる」の7曲を指す。この内「カレイドスコープ」と「Deadline」はユニット曲である。

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なお「角を曲がる」を9thの収録曲に含めないという仮説も可能だがその場合浮いたその未発表曲がアルバムに収録されない理由の説明責任が生じる。しかし

 

1)例の過激さは曲自体の過激さではない

2)ソロ曲ならば例の映像とは無関係

3)補助的な仮説は増やすべきではない

 

ためここでは採用しない。

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もしこの7曲で順当に9thシングルの制作が進められていたとするとどの曲のMVが撮影されるだろうか。まず10プのMVが撮影されていたことは既に確認した。次に選抜以外のメンバーが歌唱メンバーである「コンセントレーション」のMVもあわせて作られると考えるのが普通だろう。

 

欅坂46『コンセントレーション』MV、やはり存在していた!!! - 櫻坂46まとめもり~ http://keyakizaka46matomemory.net/archives/42443006.html

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では撮影されたのはこの2曲と〈09.20〉にMVが公開された「角を曲がる」の3曲のみなのだろうか。ここで1st~8thシングルのMV数を確認しよう。

 

〈1〉4曲/6曲中(表題+全員+ユニット+ソロ)

〈2〉4曲/7曲中(表題+全員+ソロ+ソロ)

〈3〉4曲/6曲中(表題+全員+ユニット+けやき)

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〈4〉5+1曲/7曲中(表題+W-KEYAKI+ユニット+ユニット+けやき/+全員)

〈5〉4曲/7曲中(表題+全員+ユニット+けやき)

〈6〉5曲/7曲中(表題+全員+ユニット+ユニット+けやき)

〈7〉5曲/7曲中(表題+全員+ユニット+ユニット+けやき)

〈8〉5曲/7曲中(表題+全員+ユニット+ユニット+けやき)

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つまり毎シングル4~5曲のMVが撮影されているため、「10月のプールに飛び込んだ」「コンセントレーション」「角を曲がる」の3曲以外にも1~2曲MVが作られていると考えるのが自然だろう(少なくともその予定があったと考えるのが自然だろう)。では9thシングルで撮影された残りの1~2曲とは何か。

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しかし我々の目的はMVが作られたすべての曲を言い当てることではない。そうではなく我々のここでの目的はこの1~2曲の中に例の流出映像のイメージに合致するような曲が一曲でもあることを示すことである。それができれば未発表曲や補助的な仮説を持ち出すことなく例の流出映像を説明することができる。

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そして私はその曲を「砂塵」もしくは「誰がその鐘を鳴らすのか?」だと考える。ここで一曲に限定しないのは既に述べたようにそうする必要がないからであり、また一曲に断定することなど到底できないからである。流出映像のイメージに合致するような曲が一曲でもあることを示せればここでは問題ない。

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4-1 「砂塵」

ではなぜ合致していると言えるのか。ここでまずピエロの二つの特徴を確認しよう。

 

1)実際にはどのような表情をしていようと、ピエロの表情は笑顔(他人から求められている表情)に固定されている

2)ピエロ自身は自分の言葉を発することが禁じられている(他人に自分の声を届けることができない)

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この二つの特徴のうち、1は「砂塵」と、2は「誰がその鐘を鳴らすのか?」と関係する。なぜか。まず「砂塵」の方だが、この曲で重要となるのは“あなたはこうこうこういう人間だと私は思い込んでいたが、実はそれは私のイメージに過ぎずあなたはそれとは全然違う人間だった”という主題である。

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例えば次の歌詞「色んな先入観で 誰もが思い込んでしまう/君ってどういう人か 僕にもわかったんだ」がこれに該当する。ここで重要となるとはイメージと真の姿の対比であり、両者の間に落差がなければそもそもこの曲は成り立たない。そしてピエロもまた外からは内側の顔をうかがい知ることは出来ない。

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そしてこの流出映像中には三つのイメージの象徴が存在する。その一つが壁に張り巡らされた写真である。この写真に対しては既出の写真が使われているという指摘も為されているが、“世間のイメージ”が問題となっているこの曲においてはむしろ既出の写真でなければ意味がないという反論も可能ではある。

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またディスプレイもイメージの象徴になり得る。これは流出映像中の後半に登場しており、これもまた現実に存在する生身の人間であるはずのメンバーをイメージ化する装置として機能し得る。さらにピエロという装置も、笑顔を、つまり世間から求められるイメージをメンバーに強いるものとして機能し得る。

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また歌詞には「初めて話した君は遠くのイメージと違った/気さくなその微笑みに勝手に惹かれたんだ」という部分がある。これは裏を返せば「遠くのイメージ」では「君」は「気さく」な人間ではなかったということであり、このイメージの落差を表現するために「気さく」でなさが利用される可能性はある。

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例えば“「笑わないアイドル」だと思い込んでいたため欅坂を毛嫌いしていたが、いざファンになってみるとメンバーのその「気さく」さに驚いた”という事例の場合、大元の悪魔化されたイメージとの落差が重要となる。そのためピエロのメイクはむしろ恐ろしいものでなければならないかもしれない。

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またこの流出映像の暗さ自体が「砂塵」のイメージに合わないという反論も可能であり、実際そうではあるのだが、この暗さは後半の明るさとの落差のために用いられている可能性もある。なぜなら繰り返しになるがこの曲では落差が重要となるからだ。MVの中盤で急に明るい場面に転換する場合もあり得る。

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しかしここでは例の流出映像が「砂塵」のMVだったとしても決しておかしくはない、ということまでを示せればよいのであり、それ以上は必要としない。そもそも一回目の10プの撮影場所を見て、そこが10プのMVに使われ得ると一体誰が想像できるだろうか。とはいえこの解釈に問題がないわけでもない。

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例えばもし「砂塵」の撮影が行われたのなら(そして差し替え説が提示している10月頭の目撃情報が正しいのなら)その目撃情報には「『砂塵』の撮影が行われていた」が含まれるのではないか。なぜなら〈7.12〉には既にサビは解禁されていたのだから。とはいえこれは「聞こえなかった」で済むが。

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4-2 「誰がその鐘を鳴らすのか?」

では誰鐘の場合はどうか。まず大前提として、誰鐘はこの時期に既に存在していたためMVが撮られていたとしても問題はない。また既に確認したように誰鐘ではピエロの二つ目の特徴が重要になる。

 

2)ピエロ自身は自分の言葉や自分の声を他人に届けることが禁じられている(ピエロのルール上禁止されているという意味だけでなく、社会的に見下げられているせいで発言権が無いという意味でも)

 

欅坂46】「誰鐘」について衝撃の事実が... 菅井友香のインタビューで映画でも語られていない新たな真相が判明 - 櫻坂46まとめもり~ http://keyakizaka46matomemory.net/archives/41801144.html

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ここにさらに映画『ジョーカー』(というよりはDCコミックスの一キャラクターとしてのジョーカー)の特徴を加味すると

 

3)自分の声を届けることを社会から禁じられている人間が自分の声を半ば強引に届けようとすることで社会を変革する

 

となる。しかしこれはまさに誰鐘の主題そのものではないのか。

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というのも「鐘」がこの機能を果たすからである。確認しよう。まず「耳を澄ますと聴こえてくる/色々な声や物音」「自分の言いたいことを声高に言い合ってるだけだ/際限のない自己主張はただのノイズでしかない」等の歌詞から、人々の声が無数の言葉にかき消されて届かない状態にあることが分かる。

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そのため自分の「大事なもの」(自分に固有の痛みや悲しみ等)や「他人の話」は誰に届くこともなく聴き逃されてしまうことになる。これは声を届けることができないというピエロの特徴に合致する。また流出映像中の壁に張り出されている無数の写真は「色々な声や物音」「自己主張」の象徴にもなり得る。

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まただからこそ人々は自分の「大事なもの」や「他人の話」を届けるために「鐘」を必要とする。「争いごと起きそうになった時〔…〕知らせてあげよう/言葉ではなく誰でもわかるように心に響かせるんだよ」。しかし、ジョーカーが半ば強引に届けたその声の内容に問題があるように、「鐘」も問題を含む。

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それは「誰がその鐘を鳴らすのか」という問題である。つまりより優先して届けられるべき声はあるのかという問題である。しかし誰も「神様」には「会ったことない」のだから、声の優先順位など誰にも分からないはずだ。そのため「声の優先順位」を決めるためにもまた「自己主張」が行われることになる。

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だからこそ「声の優先順位」を決めている間は、もしくはその「順位」によって「優先」されなかった人間は「僕たちの鐘はいつ鳴るんだろう」と感じ続けることになる。そのためこの曲では「鐘」の「綱」を取り合うことなく「平等に」という結論に着地する。「そばの誰が誰であっても鳴らせばいいんだ」。

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つまり声を届けることが許されていないピエロにもその機会が回って来るということになる。

 

またこの「優先順位」という主題から誰鐘は2期生曲だったのではないかという仮説が立てられることもある。確かに「そんな重たい責任〔欅坂〕を持てるかい? 逃げたいだろう?」等がそうとも取れなくもない。

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そして私はこの二期生説を否定できる十分な根拠を持ち合わせてもいない。とはいえこの問題の解決の糸口をまったく見いだせないわけでもない。なぜなら菅井さんの次の二つの発言があるからだ。

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「もちろんその頃はこの曲〔誰鐘〕がラストシングルになるとは全く予想していなかったんですが、初めて聴いた時から大好きな曲でした。その後ラストシングル、センター不在の楽曲になったことで自分のなかで解釈が変わった部分もあって、曲をよりまっすぐに受け取れるようになりました」。

 

菅井友香が明かす、欅坂46の「嘘と真実」https://moviewalker.jp/news/article/1006729/

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まず「解釈が変わった部分もあって」という部分から「初めて聴いた時」にも「解釈」を行っていたことが分かる。加えて「よりまっすぐに受け取れるようになりました」という部分からも「初めて聴いた時」にも曲を「受け取」っていたことが分かる。しかし2期生曲だった場合これは不自然ではないのか。

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なぜなら欅坂というグループにおける「解釈」は一般的な意味での「解釈」よりもよりいっそう重要な意味を帯びるからだ。そのため二期生曲を(つまり自分が担当するわけでもない楽曲を)「初めて聴いた時」の自分の行為を、本当に「解釈」という用語を用いて表現するのかについてはやや疑問が残る。

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またレコメンでの次の発言もある。

 

「今までとはまた違うというか、初めて聴いたときに、この歌詞共感できることが多いなって、今まで以上に感じました。今まで“僕”の主張みたいなものだったりとか、いろんな思いが真っ直ぐグッと来るような曲が多かったんですけど、この曲は、もっと逆にみんなの話を聞こうとか、平等なんだよとか、君の味方がいるんだ、とかそういう気持ちが入ってて、すごく伝えたいなって思ったし、自分も背中を押された曲でしたね」

 

欅坂46、ラストシングルは「センターがいない」 - クランクイン! https://www.crank-in.net/news/78929

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この発言でのポイントは二つある。一つは最後の「すごく伝えたいな」という部分であり、どのタイミングで「すごく伝えたいな」と思ったのかについては断定することができないのだが、もし「初めて聴いたとき」に思ったのだとしたら、二期生曲に対して「すごく伝えたいな」と思うのは不自然だろう。

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またそれまでの「“僕”」と比較している部分も重要であるように思われる。なぜならこの曲が表題曲や全体曲ではなく単なる二期生曲であったのなら、その曲の主人公をそれまでの「“僕”」と比較するようなことはしないように思われるからだ。ただこの比較に関してはラストシングルだからしているとも取れるが。

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以上より、「二期生説を否定できる十分な根拠を持ち合わせて〔…〕いない」とはいえ、若干の根拠であれば示すことはできたように思われる。また、仮に誰鐘が二期生曲だったとしても、例の流出映像が「砂塵」であったのならここでは問題はない。ではもし誰鐘が二期生曲ではなかったとした場合、誰鐘の歌唱メンバーは誰になるだろうか。

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もちろん正確なメンバーは我々には知る由もない。しかし、その一方で表題曲の選抜メンバー(もしくはそれを含むメンバー)であったことを否定する根拠もない。とはいえ、まったく手がかりがないわけでもない。なぜなら、この曲がラストシングルとして選ばれたという事実があるからだ。

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つまりラストシングルに選ばれるほどの楽曲だということは裏を返せば9thシングル収録曲の中でも元々重要度の高い楽曲だったということでもある(もちろん重要度が極めて低かった楽曲をラストシングルに大抜擢したという可能性もなくはないが、そちらの仮説の方を優先しなければならない理由はない)。

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この「9thシングル収録曲の中でも元々重要度の高い楽曲だった」は、例えば『不協和音』にとっての「エキセントリック」や『風に吹かれも』にとっての「避雷針」などを想起するのがよいだろう(下の記事にあるとおり、「エキセントリック」は実際に表題曲候補だった)。

 

欅坂46秋元康「エキセントリックが表題曲候補だった」 - 櫻坂46まとめもり~ http://keyakizaka46matomemory.net/archives/19749303.html

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そのように考えたとき誰鐘の歌唱メンバーが選抜メンバー(を含むメンバー)だったとしても何らおかしな話ではないように思われる。そして我々の目的は誰鐘の歌唱メンバーに流出映像に映っていたメンバーが含まれていたとしてもそれは「何らおかしな話ではない」ことを示すことでありそれ以上ではない。                                     

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なぜなら再三繰り返しているように、表題曲差し替え説を採用しなくても例の流出映像を説明できるのならば、わざわざ表題曲差し替え説を採用する必要はないからだ。そしてこの説の「例の映像は表題曲」の[論拠]は

 

1)表題曲のメンバーが映っている

 

だったのだから全ての問題はたった今解決したことになる。

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5.まとめとさらなる問題

以上が私が表題曲差し替え説が誤りであると考える理由である。しかし私はこのスレッドを離れた場所で、つまりこのスレッドの外部で「誰鐘のMVは存在した」や「例の映像は砂塵のMV」であると主張したいわけではない。そもそも冒頭で述べたように私はこの流出映像を実際の流出映像だとすら考えていない。

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私が行おうとしたのは表題曲差し替え説側の前提を仮に受け入れたとしてもその前提からはその結論は導けないということを示すことである。この「仮に~」はあくまでこのスレッドの内部での譲歩であり外部での譲歩ではない。そのためこの文脈を離れて「誰鐘のMVは存在した」等と主張されるべきではない。

   *

以上でこのスレッドの内部での目的は達成された。しかし外部には依然として残る問題がる。「外部には」とは私がこのスレッドで述べたことの正誤に関わらず、ということである。つまり私がこのスレッドで述べたことが仮にすべて間違いだったとしても、ということである。ではその問題とは何か。

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まず経緯を説明すると、スレッド冒頭で提示した表題曲差し替え説側の論拠は基本的に下の動画のコメント欄を参考にしており、スクリーンショットもこの動画のコメント欄である。ではこの動画とは何なのか。分かるのは欅坂に関するリークを装っているということである。

https://youtu.be/qPem1VK-kLQ

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「リークを装っている」と述べたのには理由があり、このリーク風動画では事実上何もリークされていないからである(タイトル以外は)。例えば、冒頭の映像はそれまでのMVをつぎはぎしたものであるし、後半の流出映像もこの動画投稿者がはじめて公表したものではない。また動画中の平手さんの音声にも素材がある。

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例えば「わたしのこと嘘つきだと言って あなたは~」という台詞は個人PV『てち浪漫』のものである。また「愛してる」という台詞も愛してるゲームの際に発せられたものだと考えられる。他の素材はより詳細に解説している方のものを参考にしていただくとしてひとまず次の結論は導くことができるだろう。

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その結論とは、この動画投稿者が他の人間に比べて情報的に優位な立場にあるわけではないというものである。つまり素材さえ集めることができれば(そして架空の表題曲をつけさえすれば)私にもあなたにも別の誰かにも例の動画を投稿することができるということである。では問題はそれだけなのか。

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むしろ根本的な問題はその外部にこそあり、それはこの動画やこの動画投稿者の「〔欅坂の〕2022.08 All Re START」という概要欄に対して様々な憶測が飛び交っていたということである。しかし「てち浪漫」ならまだしも例の流出動画の方はそれがその前の段階から出回っていたことは調べれば分かるはずだ。

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もちろん既に出回っていたからといってこの投稿者が流出動画の投稿者(の関係者)ではないとは断言することはできないが、しかしだからといって両者は別人であるという仮説よりも両者には繋がりがあるという仮説の方を優先しなければならない理由もない。誰にでも例の流出動画は素材にできたのだから。

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嘘とも本当とも言い切れないから乗っかってみるというのは結局のところスレッド中盤で述べた「そちらの仮説の方がおもしろそうだからそちらを採用したい」という下衆な欲望と同じことであり、そのような欲望がメンバーの心身に何を引き起こし得たのかは良心のある人間ならば容易に想像できるだろう。

   *

視聴者を煽って真偽不明の情報を伝えようとするこの動画投稿者にも反吐が出るし、「2022.08 All Re START」をポジティブに受け止めている一部のファンも神経を疑う。百歩譲って解散したグループが再結成するならまだしも、メンバーは今現在も櫻坂としての活動を続けている。心がないのか。

櫻坂46「Nobody's fault」歌詞解説・補足

1 はじめに 

 下の一連のツイートにおいて私は、「Nobody's fault」の歌詞を次のように要約した:夢を叶えるためには〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識を持たなければならない

本ページは、この要約に対し「『夢を叶えるためには〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識を持たなければならない』という結論自体が、〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識に反してしまうのではないか」という問題を提起した上で、その問題提起自体が誤りであることを示すことを目的とする。そのためにまずスレッド内の主張を整理し、上述の問題がどのように提起されるのかを確認する(第2節)。次にスレッド内の「せい」の用法を、(1)道徳的な責任を示すために用いられる「せい」と(2)単に因果関係を示すために用いられる「せい」の二つに分けて検討し直すことで、〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉とは言い切れず中には「明言」可能な因果関係も存在することを示す(第3節)。次いで、歌詞中の因果関係を整理し直すことで、語り手の目的は「夢が叶っているという状態」になることではなく「夢を見ている状態」になることであることを確認し、「明言」可能な因果関係のみを用いて「夢を見ている状態」になるために必要な手順を求める(第4節)。最後に以上の説明をもって、「『Nobody's fault』は、〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識を持つことと夢が叶うという状態の間に因果関係があると主張している」という上述の問題設定自体が誤りであることを示す(第5節)。

 

2 問題提起

 そもそも大元のスレッドが書かれたのは「結局のところ、〔「Nobody's fault」の語り手は〕自分のせいだと言っているのか、自分のせいだとは言っていないのか」という問いに答えるためであった。ではなぜこのような問いが提起されることになったのか。それはCメロで「自分のせいにもするな」と歌われている一方で、サビでは次のようにも歌われているからである:「他人のせいにするな/鏡に映ったお前は誰だ?/勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」。つまり「Nobody's fault」においては、「自分のせい」とも「自分のせい」ではないともとれるような、要領を得ない結論が述べられているからこそ、「結局のところ、自分のせいだと言っているのか、自分のせいだとは言っていないのか」という問いが提起されることになったのである。そしてこの問いに対して、一連スレッドでは「勝手に絶望しているのは/信念がないからだってもう気づけ」を「もう夢が叶わないと思い込んでいるのは/『出来事の生起には何か単純明快な原因があるからだ』という誤った認識を持っているという原因があるからだともう気づけ」と読み替えることで、次のように結論づけている。

 しかし仮にこの結論が正しかったとしても、「では何のために自分の態度をいったん改めなければならないのか?」と問われた場合、返答に窮さなければならなくなってしまう。というのも、もし「夢を叶えるため」と答えてしまった場合、「夢を叶えるためには、態度をいったん改める必要がある」という認識自体が、改めなければならない「態度」に含まれることになってしまうからである。これを下の図を用いて説明しよう。

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まず、「一度夢破れた原因」は「夢が叶う原因」に置き換え可能だとすると、スレッド内の説明によれば主人公は、因果関係a「自分がXという状態にいるならば、自分は夢を叶えることができない」は正しいという認識bを持っている。これが「思い込み」に当たる。また語り手は、「自分が認識bを持っているという状態にいるならば、自分は夢を叶えることができない」という認識b'も持っている。この認識b'は、自分が夢を叶えることができるのならば、自分は認識bを持っている状態にいない、と言い換えることができるため、ここから、夢を叶えるためにはこの思い込みを捨て去れなければならない(「態度」を改めなければならない)、と導くことができる。しかし、この図からも明らかなように、認識bを改めなければならない、と述べた時点で、認識bに含まれる認識b'も同じように改めなければならないということになるだろう。つまり、スレッド内で用いられた「誰のせいでもない」という原則、言い換えれば物事の明確な因果関係は分からないという原則を徹底するならば、「夢を叶えるためには、ある認識を捨てなければならない」という因果関係に対しても、それが正しいかは「分からない」と述べなければならなくなるはずである。この問題について、本来の「結局のところ、〔「Nobody's fault」の語り手は〕自分のせいだと言っているのか、自分のせいだとは言っていないのか」という問いまで遡って考え直してみると、もし「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」を「もう夢は叶わないと思い込んでいるのは/『出来事の生起には何か単純明快な原因があるからだ』という誤った認識を持っているという原因があるからだともう気づけ」という意味だと解釈した場合、「もう気づけ」と言ったそばから言った本人がそれに気づいていない、ということになってしまう。では「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」はやはり「自分のせい」という意味なのだろうか。もしそうだとすると、スレッド内の結論自体が覆ってしまうことになる。ではこの問題に対して、どのような解決策を見出すことができるだろうか。

 

3 道徳的に相手を責めるために用いられる「せい」と、単に因果関係を示すために用いられる「せい」

 この問題に対処するために、まずはスレッド内で展開された「せい」にまつわる議論を再整理する必要がある。というのも「誰のせいでもない」という原則が適用されてた後でも例外的に一部の「自分のせい」を許容できることを示せれば、スレッド内のおおよその結論を修正することなくこの問題を解決することができるからである。そのため、スレッド内では曖昧なかたちでしか用いられていなかったこの「せい」について、その二種類の用法を本節では以下確認していく。

 まず「せい」という用語は、基本的には道徳的に相手をせめるためと単に因果関係を示すための二つの場合で用いられる。そのため「Nobody's fault」において歌われている「誰のせいでもない」という主張は、このどちらの意味においても解釈することができる。

 

3-1 道徳的に相手を責めるために用いられる「せい」

 ではまずは前者から考えていこう。「誰のせいでもない」つまり誰も道徳的に責めることができない、とはどういうことか。まず大前提として、私たちが誰かを「それはあなたのせいだ」と道徳的に責めることができるのは、その相手が自由意志によって自分の行動を制御できた場合だけ、である。つまり、その相手がその行動をするかしないかを選べた場合のみ、私たちはその相手を道徳的に責めることができる。言い換えればその行動を行わないという選択がそもそも不可能だった場合、その行動を行った相手を我々は道徳的に責めることはできない(例えば人家を荒らしたクマを人間側が殺処分することはあっても、人家を荒らしたクマを人間側が法廷に呼び出すことはない)。そのため、誰かを道徳的に責めることができるためには次の二つの条件が必要となる。

  1.  ある出来事とその人物の行動の間に因果関係があること
  2. その人物がその行動を行うか行わないかを選ぶことができたこと

つまり、1のように出来事と行動の間に因果関係があるだけではその人物を道徳的に責めることができないと言える。

 しかし、では人間には2があるのかというと、そうとは言い切ることはできない。なぜならスレッド内でも述べられているように、人間の場合でも不可避の因果関係は無限に連鎖してしまうからである。つまり2に含まれる自由意志の生起ですらこの不可避の因果関係の連鎖によって生起するのであり(言い換えれば、完全な意味での自由意志などそもそも存在し得ないのであり)、それを踏まえるならば1と2という二つの条件を人間ですら満たすことはできないと言えるだろう。ゆえに、我々は誰かを道徳的に責めることはできないのであり、そこから「誰のせいでもない」という結論を導くことができるのである。よって「Nobody's fault」で用いられていた「せい」をこの道徳的な意味に限定した場合、この「せい」には例外を認めることはできないため、どのような状況下においても「自分のせい」とは言うことができなくなる。そのため「自分のせい」を例外的に認めることができるようにするために、次に単に因果関係を示すために用いられる「せい」について確認していく必要がある(つまり本ページにおいては以下、「Nobody's fault」は道徳的な意味での「せい」についてのみ述べているわけではない、という立場を取る。この立場をとるもう一つの理由としてはスレッド内で述べられているように、この立場を取らなければ「誰のせいでもない」という話と、もう一度夢を追いかけるという話を並置することができなくなるということが挙げられる)。

 

3-2 単に因果関係を示すために用いられる「せい」

 では、単に因果関係を示すために用いられる「せい」とは何か。まず、上述のように2の「その人物がその行動を行うか行わないかを選ぶことができたこと」が否定されたからといって、そこから直ちにあらゆる「せい」が否定されるわけではない。2が否定されたとしも、依然として1の因果関係は残りつづけるのである。スレッド内でも引用されているが、「I’m out」では「誰が悪いわけじゃなく人はみな誰かを不幸せにしてる」と歌われている。ここでは「誰かを不幸せにしてる」という因果関係自体は否定されておらず、にもかかわらず「誰が悪いわけじゃなく」とも言い得ることが示されている。つまりここで述べれているのは、「誰かを不幸せにしてる」かどうかはよく分からないから誰のせいでもない、ということではなく、「誰かを不幸せにしてる」という因果関係自体はまぎれもない事実ではあるがそれでも相手を道徳的に責めることはできない、という3-1で述べたようなこと、なのである。また「椅子取りゲーム」においても、相手が自分の椅子を取った人間であったも自分はその相手を道徳的に責めることができないと述べられているだけで、「目の前の人間が自分の椅子を取ったから自分は椅子に座れなかった」という因果関係自体が否定されているわけではない。このように道徳的な非難としての「せい」が否定されたからといって、因果関係を示す「せい」も共に否定される、というわけではない。

 ではこの因果関係を示すために用いられる「せい」まで、「誰のせいでもない」と否定することはできるだろうか。おそらくそれはできない。なぜならこの世界には因果関係(つまりその状況でAが起これば必然的にBも続いて起こるという関係)が存在しており、あらゆる出来事はこの因果関係の連鎖によって生起していると言えるからである。では「誰のせいでもない」とは何なのか。まずスレッド内でも述べられているように、日常生活におけるこの因果関係は離合集散を繰り返しながら無数に連鎖していくため、我々はその全容を完璧に把握することはできない。そのため、ある出来事の生起を単純で分かりやすい原因によって説明することはできない、と(あくまで一般論としては)言うことができる。とはいえ、考え得る限りもっとも整合的に既知の事実を説明できるような仮説を用いて、この因果関係の複雑さをできるかぎり単純化しようと試みてきたのが我々人類であり、実際にその試みは(この現代社会を見る限りは)上手くいっていると言える。そのため問題は「因果関係というものそのものは存在するのか」というよりは「その因果関係の説明は、信頼に足るものなのか」ということになる(もちろん「因果関係というものそのものは存在するのか」という問題設定も可能ではあるが)。信頼に足るような説明であれば我々はそれを採用できるし、信頼に足るような説明ではないのであれば我々はそれを「陰謀論」や「疑似科学」として切り捨てることができる。 このように「せい」を二種類に分けて考えたとき、「Nobody's fault」で歌われている「せい」は次のように解釈することができる。

  1. その「せい」が道徳的な責任を示すために用いられているのであれば、その「せい」はあらゆる場合で無効である
  2. その「せい」が単に因果関係を示すために用いられているのであれば、その説明が信頼に足るものである場合は有効であり、信頼に足るものではない場合は無効である

ではこのように考えたとき、「Nobody's fault」で歌われている各「せい」(もしくは「から」)はこの内のどちらに分類することができるだろうか。しかし「どちらに」というのは不適切な言い方である。なぜならどのような場合であっても道徳的な意味での「せい」は用いることはできず、またどのような場合であっても因果関係を示すための「せい」は、その説明が信頼に足るものでないならば無効であるという審査が入ることになるからである。そのため第2節の図にある認識b:「自分がXという状態にいるならば、自分は夢を叶えることができない」(言い換えれば、「自分は夢を叶えることができない、を必ず導くことが出来るような自分の状況Xが存在する」)の否定を「Nobody's fault」は主張しているのではなく、「『自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることができない』は、それが信頼に足る説明であるならば有効であり、それが信頼に足る説明でないならば無効である」を「Nobody's fault」は主張しているのである(よって以後、認識bを「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることが出来ない」として扱う)。そのため考えるべきは、第2節の図にある認識b’:「自分が認識bを持っているならば、自分は夢を叶えることができない」で示されている因果関係がどの程度信頼に足る説明だと言えるのか、そしてこの「信頼に足る説明」の中にどの程度「自分のせい」を入れ込むことができるのか、ということになる。

 

4 信頼に足る説明のみを用いて、思い込みと「自分のせい」の両方を退ける

 では「Nobody's fault」において「せい」はどのように用いられているだろうか。そのためにはまず曲中に存在する因果関係をすべて抜き出す必要がある。なぜ因果関係かというと、前節の最後で述べたように、それが二種類の「せい」の内どちらの「せい」であったとしても(つまりそれが道徳的な責任を示すために用いられる「せい」であったとしても)、必ず因果関係もしくは因果関係の否定を含むからである。曲中で語られている因果関係は一覧にすると、下図のようになる。ひとつずつ確認していこう(なお図中の「→」はその前後の行為や状態の間に因果関係があることを示す)。

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 このうち今回の問題と関係があるのは、3の後半:「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」である。しかし「自分に信念がない状態」や「自分が絶望しているという状態」が何なのかを考えるためには、1、2、3の前半、5の内容理解も必要となってくる。そのためまずは、1:「自分が吐いた息と嘘で/締め切った窓は曇ってるぜ」から確認していこう。スレッドでも述べられていたように「自分が吐いた息と嘘で」の部分は、「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない。そして自分はAという状態にいる」という認識を持っている状態のことだと考えられる。そのため「締め切った窓は曇ってるぜ」は「夢を見ることができない状態」のことだとみなすことができる。言い換えれば、「自分が今現在夢を見ることができていないのは、『自分には夢は叶わない』という思い込みがあるからだ」となる。ではこの因果関係の説明はどの程度信頼に足るものなのだろうか。しかしこれは本当に因果関係の説明なのだろうか。もしこれが「自分が夢を叶えることができないのは『自分には夢は叶わない』という思い込みがあるからだ」だった場合、この因果関係についての説明は状況によって真にも偽にもなり得る(つまり「自分には夢は叶わない」と思い込んでいても、運よく夢が叶ってしまう場合はある)。つまりもしこれが因果関係についての説明だった場合は、「『自分が吐いた息と嘘で/締め切った窓は曇ってるぜ』とは言い切れない」となる。しかし、「締め切っている窓が曇っている状態」とは夢が叶わない状態のことではなく、夢を見ることができていない状態のことである。言い換えれば、「締め切っている窓が曇っている状態」とは「『自分は夢を叶えることができない』という認識を持っている状態」のことである。つまり、下図で言えば

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「自分が吐いた息と嘘で」は認識bを持っている状態を意味し、それに認識cを合わせることで演繹的に導かれた認識d:「自分は夢を叶えることができない」を持っている状態が「締め切った窓は曇ってるぜ」だと言える。つまり、「締め切った窓は曇ってるぜ」は2つの認識から演繹的な推論によって導かれた結果であって、因果関係(ここでは因果関係を帰納的な推論として扱う)の結果ではない。言い換えれば認識dを持つのは認識bと認識cからの必然的な帰結であり、1の因果関係(もどき)は明らかに信頼に足る説明だと言える。

 では、2:「心の空気を入れ替えろ!/それでも夢を見たいなら」と5:「やるか? やらないのか? それだけだ/もう一度 生まれ変わるなら」はどうだろうか。まず2の「それでも夢を見たいなら」は「認識d:『自分は夢を叶えることができない』を導けないようにしたいのなら」だと解することができる。またこのように考えると、5の「もう一度 生まれ変わるなら」も、2と同じように「認識d:『自分は夢を叶えることができない』を導けないようにしたいのなら」を意味していると考えられる。また1と2を踏まえると、この時点で、第2節の図中に示した認識b’:「自分が認識bを持っているならば、自分は夢を叶えることができない」は、「自分が認識bを持っているならば、自分は夢を見ることができない、つまり『自分は夢を叶えることができない』という認識を持つことになる」となる。これを言い換えると「『自分は夢を叶えることができない』という認識を持っていないならば」つまり「認識d:『自分は夢を叶えることができない』は導けないという認識を持っているならば、自分は認識bを持っていない」となる。では、この「認識dは導けないという認識を持っている」ことと「自分は認識bを持っていないこと」の間の因果関係の説明はどの程度信頼に足るものなのだろうか。話を2と5の解釈に戻して考えてみよう。ここで述べられているのは目的:「認識dは導けないという認識を持つこと」であって、この目的の達成には「心の空気を入れ替えるという行為」「『やる』ことを決めるという行為」が手段として必要となる、とここでは述べられている。とはいえ、目的と手段自体も両者の間に因果関係がないのならそもそもそれを「目的と手段」と呼ぶことはできないため、ここでは「心の空気を入れ替えるという行為」「『やる』ことを決めるという行為」が因果的に「認識d:『自分は夢を叶えることができない』は導けないという認識を持つこと」を導くことが想定されている。しかし認識dを正当な手順で導けないようにするためには、(認識dが演繹的に導かれている以上)認識b:「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない(そして自分はAという状態にいる)」を否定する他に手段はない。そのため、目的達成のための手段はここでは「認識bを否定すること」となるが、ではこの認識bで示されている因果関係はどの程度信頼に足るものだと言えるのだろうか。もちろんこれが現実の出来事であったのなら既存の仮説や既知の事実に照らし合わせて、認識bの信頼度をはかることになるのだろう。しかし、「嘘」や「言い訳」という言葉が使われていることからすると、少なくともこの楽曲内においてはこの認識bを否定するための根拠はどうやら十分にそろっているようである。「ようである」と言うしかないのはこちらからは確認のしようがないからであり、そのためここからは認識bを否定する根拠自体は十分にそろっている、という前提で話を進めていくことになる。

 しかし仮に根拠が十分にそろっていたとしても、そこからただちにこの語り手が「心の空気を入れ替えるという行為」や「『やる』ことを決めるという行為」つまり、認識bを否定するという行為に出るかどうかは断言できない。なぜなら、認識bを否定し得る十分な根拠を提示されたとしても最終的に認識bを捨て去るか、認識bに憑りつかれたままになるかは、本人の「そうしたい」という願望に依存することになるからである。例えばある陰謀を信じ込んでいた場合、正しい根拠でその陰謀を否定されたとしても、「その陰謀を信じたい」という願望からその陰謀を信じ続けることも十分あり得るだろう。そのため、認識d:「自分は夢を叶えることができない」は導けないという認識を持つことができかどうかは、認識b:「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない」を否定したいと思えるかどうかにかかっている。だからこそ、「やるか? やらないか? それだけだ」となるのだし、3の後半で唐突に「信念」というワードが現れるのである。スレッド内ではこの「信念」は、「『自分は自分の人生を自分の作りたい方向に作り替えていける』という人生の肯定感」と言い換えられていたが、これはある種の願望であるとも言える。もし「信念」を願望と置き換えることに抵抗があるのであれば、「信念」は願望の必要条件であると考えてもよい。「信念」があったとしても願望が生じるとは限らないが、願望が生じるためには「信念」が必ず必要となる。というのも、ある願望が生じるのはそもそもその達成が可能であるという感覚(つまり「信念」)があるからである(たとえば、私たちは「将来はポケモンになりたい」という願望を抱こうとしてももう抱くことはできない。あるいは「それでも生きる」と歌われているように、生に対する肯定感つまり「信念」を喪失した場合、それにともなって人は徐々にさまざま欲求を失っていく)。このように「信念」を願望の明らかな必要条件だと考えたとき、これまでの議論は下図のようになる。

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では、この願望と「認識bを否定するという行為」の間にはどの程度信頼に足る因果関係があると言えるのだろうか。もちろんこの「信念」が必ずしも願望を導かなかったように、願望も「認識bを否定するという行為」を必ず導くわけではない。例えば、何かを買いたいという欲求を持っていたとしてもそのことが必ず「何かを買う」という行為を導くわけではない。しかし、この願望は「認識bを否定するという行為」の必要条件であるとは言えるのではないか。つまり、「認識bを否定するという行為」を行うためには最低でもそうしたいという願望が必要なのではないか。なぜなら、生物としての行動は願望(欲求)がなければ為されようがないからである(と言うより、行動を導くそのようなものをまさに「願望(欲求)」と呼んでいるのである)。だからこそ、3の後半:「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ!」は、「信念があれば、勝手に絶望することはない」という意味ではなく、「勝手に絶望しないためには少なくとも信念が必要だ」という意味だと解することができる。以上を踏まえれば、この楽曲は次のように述べていることになる:「夢を見ている状態」になるためには、つまり「認識d:『自分は夢を叶えることができない』は導けないという認識を持つ」ためには、まず「認識b:『自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない(そして自分はAという状態にいる)』を否定する」ことが(演繹的な推論により)必要になり、そのためには十分な論拠をそろえた上で「認識bを否定したい」という願望(あるいは「信念」)が最低限必要になる。そのため、「夢を見ている状態」になるためには、願望(あるいは「信念」)が最低限必要になる。

 以上により、第2節で示した問題は解決された。

 

5 まとめ

 本ページで私は、「『夢を叶えるためには〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識を持たなければならない』という結論自体が、〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識に反してしまうのではないか」という問題を提起した上で、この問題を次のアプローチをとることで解決した。

  1. そもそも〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉とはこの曲は主張していない。それが信頼に足る説明であれば〈何が原因で夢が叶うか〉は明言可能である。信頼に足る説明ではない場合に限り〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉と言うことができる。
  2. そもそも「夢を叶えるためには」とはこの曲は主張していない。主張しているのは「夢を見ている状態になるためには」、つまり「『自分は夢を叶えることはできない』という結論は導けないという認識を持っている状態になるためには」である。
  3. 「自分は夢を叶えることはできない」という結論は導けないという認識を持っている状態になるためには、演繹的な推論から「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない(そして自分はAという状態にいる)」という認識を否定しなければならなず、そのためには願望(もしくは「信念」)が最低限必要となる。また、この説明は「信頼に足る説明」に説明に当てはまる。

そのため「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」の部分を受けて「自分が信念を持っていないことが原因だ」と言うことができたとしても、つまり自分が原因の一部であるということを示すことができたとしても、ここでは何も問題にはならない。なぜならこの曲で批判されているのは自分が「原因の一部である」ことではなく、信頼に足る説明が為されていないにもかかわらずそこで示された因果関係を無根拠に信じ込むこと(この場合で言えば、誰か一人だけが全ての原因だと思い込むこと)、だからである。このようなスレッドと本ページの内容を踏まえた歌詞の意訳は下図のようになる。

 なお2種類の「せい」を踏まえた「椅子取りゲーム」の再解釈★1は本ページでは扱いきれなかったため、今後の課題としたい。

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  註

★1:概説すると、次のようになる。まず、「夢を叶えられないこと:他人のせいにすること」が「椅子取りゲームから排除されたこと:他人のせいにすること」と同じ関係にある場合、椅子取りゲームで「他人のせいにする」のは「椅子取りゲームから排除されたこと」の「言い訳」(「嘘」)を口にするためであり、(他人のせいにしたところで夢が叶うようになるわけではないのと同じように)他人のせいにしたところでゲームにもう一度復帰できるようになるわけでも、ましてや自分が最後の一席に座れるようになるわけでもない。そのため、「誰かのせいにしても/一つが残る椅子取りゲーム」は「誰かのせいにしたところで、〔結局は自分が座ることができない〕一つ〔だけ〕が残る〔じゃないか〕椅子取りゲーム〔は〕」ということになる。つまりこのような理由で、第4節の冒頭の図にあるように、「誰かのせいにするという行為→〔最後の一人と、自分が座る〕複数の椅子が残るという状態」と「誰かのせいにするという行為→〔最後に残る一人すらゲームから排除して〕一つも椅子が残らないという状態」の両方が否定されることになる。言いかれば「誰かのせいにしたところで、結果は変わらないじゃないか」ということになる。なお、これは「誰かのせいにしても/一つが残る椅子取りゲーム」の「せい」を因果関係を示すために用いられる「せい」の意味だと考えた場合の解釈である。自分の席を奪ったその相手が、自分が席に座れなかったことの「原因の一部」であることは間違いないが、その「目先の相手」すら複雑怪奇な因果関係の網の中に捕えられているのであるのだから、その「せい」では全ての因果関係を総合的に把握できるのような「信頼に足る説明」にはならない(たとえば「あいつに席を取られたから自分は席に座れなかったんだ」と説明したとしても、「あいつ」のいない別の椅子取りゲームでも「自分」は椅子を取られてしまうだろう。そのため「あいつに席を取られたから自分は席に座れなかったんだ」は近距離の因果関係の説明としては正しいが、自分がゲームから排除されたことの総合的な説明としては明らかに不十分である)。なお、道徳的な責任を示すために用いられる「せい」の意味としても「誰かのせいにしても/一つが残る椅子取りゲーム」は理解でき、それはスレッドで示した通りである。つまりこの註で説明したように、この部分は「誰かのせいにしたところで、〔結局は自分が座ることができない〕一つ〔だけ〕が残る〔じゃないか〕椅子取りゲーム〔は〕」と解釈できるため、自分が座る予定だった椅子を奪ったその相手を責めたところで結果は何も変わらなかっただろう、ということになる。結果が変わらないのなら、その相手を「お前のせいでこうなったんだ」と道徳的に責めるのは明らかに不当だろう。なぜなら、誰がやっても同じ結果になるということは、その相手には選択権がなかったということだからである。選択権がなかった行為に対しては、人は道徳的に責めることはできない。