櫻坂46「Nobody's fault」歌詞解説・補足

1 はじめに 

 下の一連のツイートにおいて私は、「Nobody's fault」の歌詞を次のように要約した:夢を叶えるためには〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識を持たなければならない

本ページは、この要約に対し「『夢を叶えるためには〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識を持たなければならない』という結論自体が、〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識に反してしまうのではないか」という問題を提起した上で、その問題提起自体が誤りであることを示すことを目的とする。そのためにまずスレッド内の主張を整理し、上述の問題がどのように提起されるのかを確認する(第2節)。次にスレッド内の「せい」の用法を、(1)道徳的な責任を示すために用いられる「せい」と(2)単に因果関係を示すために用いられる「せい」の二つに分けて検討し直すことで、〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉とは言い切れず中には「明言」可能な因果関係も存在することを示す(第3節)。次いで、歌詞中の因果関係を整理し直すことで、語り手の目的は「夢が叶っているという状態」になることではなく「夢を見ている状態」になることであることを確認し、「明言」可能な因果関係のみを用いて「夢を見ている状態」になるために必要な手順を求める(第4節)。最後に以上の説明をもって、「『Nobody's fault』は、〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識を持つことと夢が叶うという状態の間に因果関係があると主張している」という上述の問題設定自体が誤りであることを示す(第5節)。

 

2 問題提起

 そもそも大元のスレッドが書かれたのは「結局のところ、〔「Nobody's fault」の語り手は〕自分のせいだと言っているのか、自分のせいだとは言っていないのか」という問いに答えるためであった。ではなぜこのような問いが提起されることになったのか。それはCメロで「自分のせいにもするな」と歌われている一方で、サビでは次のようにも歌われているからである:「他人のせいにするな/鏡に映ったお前は誰だ?/勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」。つまり「Nobody's fault」においては、「自分のせい」とも「自分のせい」ではないともとれるような、要領を得ない結論が述べられているからこそ、「結局のところ、自分のせいだと言っているのか、自分のせいだとは言っていないのか」という問いが提起されることになったのである。そしてこの問いに対して、一連スレッドでは「勝手に絶望しているのは/信念がないからだってもう気づけ」を「もう夢が叶わないと思い込んでいるのは/『出来事の生起には何か単純明快な原因があるからだ』という誤った認識を持っているという原因があるからだともう気づけ」と読み替えることで、次のように結論づけている。

 しかし仮にこの結論が正しかったとしても、「では何のために自分の態度をいったん改めなければならないのか?」と問われた場合、返答に窮さなければならなくなってしまう。というのも、もし「夢を叶えるため」と答えてしまった場合、「夢を叶えるためには、態度をいったん改める必要がある」という認識自体が、改めなければならない「態度」に含まれることになってしまうからである。これを下の図を用いて説明しよう。

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まず、「一度夢破れた原因」は「夢が叶う原因」に置き換え可能だとすると、スレッド内の説明によれば主人公は、因果関係a「自分がXという状態にいるならば、自分は夢を叶えることができない」は正しいという認識bを持っている。これが「思い込み」に当たる。また語り手は、「自分が認識bを持っているという状態にいるならば、自分は夢を叶えることができない」という認識b'も持っている。この認識b'は、自分が夢を叶えることができるのならば、自分は認識bを持っている状態にいない、と言い換えることができるため、ここから、夢を叶えるためにはこの思い込みを捨て去れなければならない(「態度」を改めなければならない)、と導くことができる。しかし、この図からも明らかなように、認識bを改めなければならない、と述べた時点で、認識bに含まれる認識b'も同じように改めなければならないということになるだろう。つまり、スレッド内で用いられた「誰のせいでもない」という原則、言い換えれば物事の明確な因果関係は分からないという原則を徹底するならば、「夢を叶えるためには、ある認識を捨てなければならない」という因果関係に対しても、それが正しいかは「分からない」と述べなければならなくなるはずである。この問題について、本来の「結局のところ、〔「Nobody's fault」の語り手は〕自分のせいだと言っているのか、自分のせいだとは言っていないのか」という問いまで遡って考え直してみると、もし「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」を「もう夢は叶わないと思い込んでいるのは/『出来事の生起には何か単純明快な原因があるからだ』という誤った認識を持っているという原因があるからだともう気づけ」という意味だと解釈した場合、「もう気づけ」と言ったそばから言った本人がそれに気づいていない、ということになってしまう。では「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」はやはり「自分のせい」という意味なのだろうか。もしそうだとすると、スレッド内の結論自体が覆ってしまうことになる。ではこの問題に対して、どのような解決策を見出すことができるだろうか。

 

3 道徳的に相手を責めるために用いられる「せい」と、単に因果関係を示すために用いられる「せい」

 この問題に対処するために、まずはスレッド内で展開された「せい」にまつわる議論を再整理する必要がある。というのも「誰のせいでもない」という原則が適用されてた後でも例外的に一部の「自分のせい」を許容できることを示せれば、スレッド内のおおよその結論を修正することなくこの問題を解決することができるからである。そのため、スレッド内では曖昧なかたちでしか用いられていなかったこの「せい」について、その二種類の用法を本節では以下確認していく。

 まず「せい」という用語は、基本的には道徳的に相手をせめるためと単に因果関係を示すための二つの場合で用いられる。そのため「Nobody's fault」において歌われている「誰のせいでもない」という主張は、このどちらの意味においても解釈することができる。

 

3-1 道徳的に相手を責めるために用いられる「せい」

 ではまずは前者から考えていこう。「誰のせいでもない」つまり誰も道徳的に責めることができない、とはどういうことか。まず大前提として、私たちが誰かを「それはあなたのせいだ」と道徳的に責めることができるのは、その相手が自由意志によって自分の行動を制御できた場合だけ、である。つまり、その相手がその行動をするかしないかを選べた場合のみ、私たちはその相手を道徳的に責めることができる。言い換えればその行動を行わないという選択がそもそも不可能だった場合、その行動を行った相手を我々は道徳的に責めることはできない(例えば人家を荒らしたクマを人間側が殺処分することはあっても、人家を荒らしたクマを人間側が法廷に呼び出すことはない)。そのため、誰かを道徳的に責めることができるためには次の二つの条件が必要となる。

  1.  ある出来事とその人物の行動の間に因果関係があること
  2. その人物がその行動を行うか行わないかを選ぶことができたこと

つまり、1のように出来事と行動の間に因果関係があるだけではその人物を道徳的に責めることができないと言える。

 しかし、では人間には2があるのかというと、そうとは言い切ることはできない。なぜならスレッド内でも述べられているように、人間の場合でも不可避の因果関係は無限に連鎖してしまうからである。つまり2に含まれる自由意志の生起ですらこの不可避の因果関係の連鎖によって生起するのであり(言い換えれば、完全な意味での自由意志などそもそも存在し得ないのであり)、それを踏まえるならば1と2という二つの条件を人間ですら満たすことはできないと言えるだろう。ゆえに、我々は誰かを道徳的に責めることはできないのであり、そこから「誰のせいでもない」という結論を導くことができるのである。よって「Nobody's fault」で用いられていた「せい」をこの道徳的な意味に限定した場合、この「せい」には例外を認めることはできないため、どのような状況下においても「自分のせい」とは言うことができなくなる。そのため「自分のせい」を例外的に認めることができるようにするために、次に単に因果関係を示すために用いられる「せい」について確認していく必要がある(つまり本ページにおいては以下、「Nobody's fault」は道徳的な意味での「せい」についてのみ述べているわけではない、という立場を取る。この立場をとるもう一つの理由としてはスレッド内で述べられているように、この立場を取らなければ「誰のせいでもない」という話と、もう一度夢を追いかけるという話を並置することができなくなるということが挙げられる)。

 

3-2 単に因果関係を示すために用いられる「せい」

 では、単に因果関係を示すために用いられる「せい」とは何か。まず、上述のように2の「その人物がその行動を行うか行わないかを選ぶことができたこと」が否定されたからといって、そこから直ちにあらゆる「せい」が否定されるわけではない。2が否定されたとしも、依然として1の因果関係は残りつづけるのである。スレッド内でも引用されているが、「I’m out」では「誰が悪いわけじゃなく人はみな誰かを不幸せにしてる」と歌われている。ここでは「誰かを不幸せにしてる」という因果関係自体は否定されておらず、にもかかわらず「誰が悪いわけじゃなく」とも言い得ることが示されている。つまりここで述べれているのは、「誰かを不幸せにしてる」かどうかはよく分からないから誰のせいでもない、ということではなく、「誰かを不幸せにしてる」という因果関係自体はまぎれもない事実ではあるがそれでも相手を道徳的に責めることはできない、という3-1で述べたようなこと、なのである。また「椅子取りゲーム」においても、相手が自分の椅子を取った人間であったも自分はその相手を道徳的に責めることができないと述べられているだけで、「目の前の人間が自分の椅子を取ったから自分は椅子に座れなかった」という因果関係自体が否定されているわけではない。このように道徳的な非難としての「せい」が否定されたからといって、因果関係を示す「せい」も共に否定される、というわけではない。

 ではこの因果関係を示すために用いられる「せい」まで、「誰のせいでもない」と否定することはできるだろうか。おそらくそれはできない。なぜならこの世界には因果関係(つまりその状況でAが起これば必然的にBも続いて起こるという関係)が存在しており、あらゆる出来事はこの因果関係の連鎖によって生起していると言えるからである。では「誰のせいでもない」とは何なのか。まずスレッド内でも述べられているように、日常生活におけるこの因果関係は離合集散を繰り返しながら無数に連鎖していくため、我々はその全容を完璧に把握することはできない。そのため、ある出来事の生起を単純で分かりやすい原因によって説明することはできない、と(あくまで一般論としては)言うことができる。とはいえ、考え得る限りもっとも整合的に既知の事実を説明できるような仮説を用いて、この因果関係の複雑さをできるかぎり単純化しようと試みてきたのが我々人類であり、実際にその試みは(この現代社会を見る限りは)上手くいっていると言える。そのため問題は「因果関係というものそのものは存在するのか」というよりは「その因果関係の説明は、信頼に足るものなのか」ということになる(もちろん「因果関係というものそのものは存在するのか」という問題設定も可能ではあるが)。信頼に足るような説明であれば我々はそれを採用できるし、信頼に足るような説明ではないのであれば我々はそれを「陰謀論」や「疑似科学」として切り捨てることができる。 このように「せい」を二種類に分けて考えたとき、「Nobody's fault」で歌われている「せい」は次のように解釈することができる。

  1. その「せい」が道徳的な責任を示すために用いられているのであれば、その「せい」はあらゆる場合で無効である
  2. その「せい」が単に因果関係を示すために用いられているのであれば、その説明が信頼に足るものである場合は有効であり、信頼に足るものではない場合は無効である

ではこのように考えたとき、「Nobody's fault」で歌われている各「せい」(もしくは「から」)はこの内のどちらに分類することができるだろうか。しかし「どちらに」というのは不適切な言い方である。なぜならどのような場合であっても道徳的な意味での「せい」は用いることはできず、またどのような場合であっても因果関係を示すための「せい」は、その説明が信頼に足るものでないならば無効であるという審査が入ることになるからである。そのため第2節の図にある認識b:「自分がXという状態にいるならば、自分は夢を叶えることができない」(言い換えれば、「自分は夢を叶えることができない、を必ず導くことが出来るような自分の状況Xが存在する」)の否定を「Nobody's fault」は主張しているのではなく、「『自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることができない』は、それが信頼に足る説明であるならば有効であり、それが信頼に足る説明でないならば無効である」を「Nobody's fault」は主張しているのである(よって以後、認識bを「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることが出来ない」として扱う)。そのため考えるべきは、第2節の図にある認識b’:「自分が認識bを持っているならば、自分は夢を叶えることができない」で示されている因果関係がどの程度信頼に足る説明だと言えるのか、そしてこの「信頼に足る説明」の中にどの程度「自分のせい」を入れ込むことができるのか、ということになる。

 

4 信頼に足る説明のみを用いて、思い込みと「自分のせい」の両方を退ける

 では「Nobody's fault」において「せい」はどのように用いられているだろうか。そのためにはまず曲中に存在する因果関係をすべて抜き出す必要がある。なぜ因果関係かというと、前節の最後で述べたように、それが二種類の「せい」の内どちらの「せい」であったとしても(つまりそれが道徳的な責任を示すために用いられる「せい」であったとしても)、必ず因果関係もしくは因果関係の否定を含むからである。曲中で語られている因果関係は一覧にすると、下図のようになる。ひとつずつ確認していこう(なお図中の「→」はその前後の行為や状態の間に因果関係があることを示す)。

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 このうち今回の問題と関係があるのは、3の後半:「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」である。しかし「自分に信念がない状態」や「自分が絶望しているという状態」が何なのかを考えるためには、1、2、3の前半、5の内容理解も必要となってくる。そのためまずは、1:「自分が吐いた息と嘘で/締め切った窓は曇ってるぜ」から確認していこう。スレッドでも述べられていたように「自分が吐いた息と嘘で」の部分は、「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない。そして自分はAという状態にいる」という認識を持っている状態のことだと考えられる。そのため「締め切った窓は曇ってるぜ」は「夢を見ることができない状態」のことだとみなすことができる。言い換えれば、「自分が今現在夢を見ることができていないのは、『自分には夢は叶わない』という思い込みがあるからだ」となる。ではこの因果関係の説明はどの程度信頼に足るものなのだろうか。しかしこれは本当に因果関係の説明なのだろうか。もしこれが「自分が夢を叶えることができないのは『自分には夢は叶わない』という思い込みがあるからだ」だった場合、この因果関係についての説明は状況によって真にも偽にもなり得る(つまり「自分には夢は叶わない」と思い込んでいても、運よく夢が叶ってしまう場合はある)。つまりもしこれが因果関係についての説明だった場合は、「『自分が吐いた息と嘘で/締め切った窓は曇ってるぜ』とは言い切れない」となる。しかし、「締め切っている窓が曇っている状態」とは夢が叶わない状態のことではなく、夢を見ることができていない状態のことである。言い換えれば、「締め切っている窓が曇っている状態」とは「『自分は夢を叶えることができない』という認識を持っている状態」のことである。つまり、下図で言えば

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「自分が吐いた息と嘘で」は認識bを持っている状態を意味し、それに認識cを合わせることで演繹的に導かれた認識d:「自分は夢を叶えることができない」を持っている状態が「締め切った窓は曇ってるぜ」だと言える。つまり、「締め切った窓は曇ってるぜ」は2つの認識から演繹的な推論によって導かれた結果であって、因果関係(ここでは因果関係を帰納的な推論として扱う)の結果ではない。言い換えれば認識dを持つのは認識bと認識cからの必然的な帰結であり、1の因果関係(もどき)は明らかに信頼に足る説明だと言える。

 では、2:「心の空気を入れ替えろ!/それでも夢を見たいなら」と5:「やるか? やらないのか? それだけだ/もう一度 生まれ変わるなら」はどうだろうか。まず2の「それでも夢を見たいなら」は「認識d:『自分は夢を叶えることができない』を導けないようにしたいのなら」だと解することができる。またこのように考えると、5の「もう一度 生まれ変わるなら」も、2と同じように「認識d:『自分は夢を叶えることができない』を導けないようにしたいのなら」を意味していると考えられる。また1と2を踏まえると、この時点で、第2節の図中に示した認識b’:「自分が認識bを持っているならば、自分は夢を叶えることができない」は、「自分が認識bを持っているならば、自分は夢を見ることができない、つまり『自分は夢を叶えることができない』という認識を持つことになる」となる。これを言い換えると「『自分は夢を叶えることができない』という認識を持っていないならば」つまり「認識d:『自分は夢を叶えることができない』は導けないという認識を持っているならば、自分は認識bを持っていない」となる。では、この「認識dは導けないという認識を持っている」ことと「自分は認識bを持っていないこと」の間の因果関係の説明はどの程度信頼に足るものなのだろうか。話を2と5の解釈に戻して考えてみよう。ここで述べられているのは目的:「認識dは導けないという認識を持つこと」であって、この目的の達成には「心の空気を入れ替えるという行為」「『やる』ことを決めるという行為」が手段として必要となる、とここでは述べられている。とはいえ、目的と手段自体も両者の間に因果関係がないのならそもそもそれを「目的と手段」と呼ぶことはできないため、ここでは「心の空気を入れ替えるという行為」「『やる』ことを決めるという行為」が因果的に「認識d:『自分は夢を叶えることができない』は導けないという認識を持つこと」を導くことが想定されている。しかし認識dを正当な手順で導けないようにするためには、(認識dが演繹的に導かれている以上)認識b:「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない(そして自分はAという状態にいる)」を否定する他に手段はない。そのため、目的達成のための手段はここでは「認識bを否定すること」となるが、ではこの認識bで示されている因果関係はどの程度信頼に足るものだと言えるのだろうか。もちろんこれが現実の出来事であったのなら既存の仮説や既知の事実に照らし合わせて、認識bの信頼度をはかることになるのだろう。しかし、「嘘」や「言い訳」という言葉が使われていることからすると、少なくともこの楽曲内においてはこの認識bを否定するための根拠はどうやら十分にそろっているようである。「ようである」と言うしかないのはこちらからは確認のしようがないからであり、そのためここからは認識bを否定する根拠自体は十分にそろっている、という前提で話を進めていくことになる。

 しかし仮に根拠が十分にそろっていたとしても、そこからただちにこの語り手が「心の空気を入れ替えるという行為」や「『やる』ことを決めるという行為」つまり、認識bを否定するという行為に出るかどうかは断言できない。なぜなら、認識bを否定し得る十分な根拠を提示されたとしても最終的に認識bを捨て去るか、認識bに憑りつかれたままになるかは、本人の「そうしたい」という願望に依存することになるからである。例えばある陰謀を信じ込んでいた場合、正しい根拠でその陰謀を否定されたとしても、「その陰謀を信じたい」という願望からその陰謀を信じ続けることも十分あり得るだろう。そのため、認識d:「自分は夢を叶えることができない」は導けないという認識を持つことができかどうかは、認識b:「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない」を否定したいと思えるかどうかにかかっている。だからこそ、「やるか? やらないか? それだけだ」となるのだし、3の後半で唐突に「信念」というワードが現れるのである。スレッド内ではこの「信念」は、「『自分は自分の人生を自分の作りたい方向に作り替えていける』という人生の肯定感」と言い換えられていたが、これはある種の願望であるとも言える。もし「信念」を願望と置き換えることに抵抗があるのであれば、「信念」は願望の必要条件であると考えてもよい。「信念」があったとしても願望が生じるとは限らないが、願望が生じるためには「信念」が必ず必要となる。というのも、ある願望が生じるのはそもそもその達成が可能であるという感覚(つまり「信念」)があるからである(たとえば、私たちは「将来はポケモンになりたい」という願望を抱こうとしてももう抱くことはできない。あるいは「それでも生きる」と歌われているように、生に対する肯定感つまり「信念」を喪失した場合、それにともなって人は徐々にさまざま欲求を失っていく)。このように「信念」を願望の明らかな必要条件だと考えたとき、これまでの議論は下図のようになる。

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では、この願望と「認識bを否定するという行為」の間にはどの程度信頼に足る因果関係があると言えるのだろうか。もちろんこの「信念」が必ずしも願望を導かなかったように、願望も「認識bを否定するという行為」を必ず導くわけではない。例えば、何かを買いたいという欲求を持っていたとしてもそのことが必ず「何かを買う」という行為を導くわけではない。しかし、この願望は「認識bを否定するという行為」の必要条件であるとは言えるのではないか。つまり、「認識bを否定するという行為」を行うためには最低でもそうしたいという願望が必要なのではないか。なぜなら、生物としての行動は願望(欲求)がなければ為されようがないからである(と言うより、行動を導くそのようなものをまさに「願望(欲求)」と呼んでいるのである)。だからこそ、3の後半:「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ!」は、「信念があれば、勝手に絶望することはない」という意味ではなく、「勝手に絶望しないためには少なくとも信念が必要だ」という意味だと解することができる。以上を踏まえれば、この楽曲は次のように述べていることになる:「夢を見ている状態」になるためには、つまり「認識d:『自分は夢を叶えることができない』は導けないという認識を持つ」ためには、まず「認識b:『自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない(そして自分はAという状態にいる)』を否定する」ことが(演繹的な推論により)必要になり、そのためには十分な論拠をそろえた上で「認識bを否定したい」という願望(あるいは「信念」)が最低限必要になる。そのため、「夢を見ている状態」になるためには、願望(あるいは「信念」)が最低限必要になる。

 以上により、第2節で示した問題は解決された。

 

5 まとめ

 本ページで私は、「『夢を叶えるためには〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識を持たなければならない』という結論自体が、〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉という認識に反してしまうのではないか」という問題を提起した上で、この問題を次のアプローチをとることで解決した。

  1. そもそも〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉とはこの曲は主張していない。それが信頼に足る説明であれば〈何が原因で夢が叶うか〉は明言可能である。信頼に足る説明ではない場合に限り〈何が原因で夢が叶うかは明言できない〉と言うことができる。
  2. そもそも「夢を叶えるためには」とはこの曲は主張していない。主張しているのは「夢を見ている状態になるためには」、つまり「『自分は夢を叶えることはできない』という結論は導けないという認識を持っている状態になるためには」である。
  3. 「自分は夢を叶えることはできない」という結論は導けないという認識を持っている状態になるためには、演繹的な推論から「自分がAという状態にいるならば、自分は夢を叶えることはできない(そして自分はAという状態にいる)」という認識を否定しなければならなず、そのためには願望(もしくは「信念」)が最低限必要となる。また、この説明は「信頼に足る説明」に説明に当てはまる。

そのため「勝手に絶望してるのは/信念がないからだってもう気づけ」の部分を受けて「自分が信念を持っていないことが原因だ」と言うことができたとしても、つまり自分が原因の一部であるということを示すことができたとしても、ここでは何も問題にはならない。なぜならこの曲で批判されているのは自分が「原因の一部である」ことではなく、信頼に足る説明が為されていないにもかかわらずそこで示された因果関係を無根拠に信じ込むこと(この場合で言えば、誰か一人だけが全ての原因だと思い込むこと)、だからである。このようなスレッドと本ページの内容を踏まえた歌詞の意訳は下図のようになる。

 なお2種類の「せい」を踏まえた「椅子取りゲーム」の再解釈★1は本ページでは扱いきれなかったため、今後の課題としたい。

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  註

★1:概説すると、次のようになる。まず、「夢を叶えられないこと:他人のせいにすること」が「椅子取りゲームから排除されたこと:他人のせいにすること」と同じ関係にある場合、椅子取りゲームで「他人のせいにする」のは「椅子取りゲームから排除されたこと」の「言い訳」(「嘘」)を口にするためであり、(他人のせいにしたところで夢が叶うようになるわけではないのと同じように)他人のせいにしたところでゲームにもう一度復帰できるようになるわけでも、ましてや自分が最後の一席に座れるようになるわけでもない。そのため、「誰かのせいにしても/一つが残る椅子取りゲーム」は「誰かのせいにしたところで、〔結局は自分が座ることができない〕一つ〔だけ〕が残る〔じゃないか〕椅子取りゲーム〔は〕」ということになる。つまりこのような理由で、第4節の冒頭の図にあるように、「誰かのせいにするという行為→〔最後の一人と、自分が座る〕複数の椅子が残るという状態」と「誰かのせいにするという行為→〔最後に残る一人すらゲームから排除して〕一つも椅子が残らないという状態」の両方が否定されることになる。言いかれば「誰かのせいにしたところで、結果は変わらないじゃないか」ということになる。なお、これは「誰かのせいにしても/一つが残る椅子取りゲーム」の「せい」を因果関係を示すために用いられる「せい」の意味だと考えた場合の解釈である。自分の席を奪ったその相手が、自分が席に座れなかったことの「原因の一部」であることは間違いないが、その「目先の相手」すら複雑怪奇な因果関係の網の中に捕えられているのであるのだから、その「せい」では全ての因果関係を総合的に把握できるのような「信頼に足る説明」にはならない(たとえば「あいつに席を取られたから自分は席に座れなかったんだ」と説明したとしても、「あいつ」のいない別の椅子取りゲームでも「自分」は椅子を取られてしまうだろう。そのため「あいつに席を取られたから自分は席に座れなかったんだ」は近距離の因果関係の説明としては正しいが、自分がゲームから排除されたことの総合的な説明としては明らかに不十分である)。なお、道徳的な責任を示すために用いられる「せい」の意味としても「誰かのせいにしても/一つが残る椅子取りゲーム」は理解でき、それはスレッドで示した通りである。つまりこの註で説明したように、この部分は「誰かのせいにしたところで、〔結局は自分が座ることができない〕一つ〔だけ〕が残る〔じゃないか〕椅子取りゲーム〔は〕」と解釈できるため、自分が座る予定だった椅子を奪ったその相手を責めたところで結果は何も変わらなかっただろう、ということになる。結果が変わらないのなら、その相手を「お前のせいでこうなったんだ」と道徳的に責めるのは明らかに不当だろう。なぜなら、誰がやっても同じ結果になるということは、その相手には選択権がなかったということだからである。選択権がなかった行為に対しては、人は道徳的に責めることはできない。